今日、久しぶりにチャーハンを作ってみた。
また作りたい。
昔はよく作ってたし、こだわりも持っていた。
ワンルームマンションのIHとテフロン加工のフライパンで、どこまで作れるか。
前日のお米の残りに卵とガラスープと味の素とごま油を投入し、常温の状態で混ぜる。
で、それを一回アチアチにチンする。
これは田村家に受け継がれたレシピを私が改良した、自信作の調理法だった。
最近私は「京都の人間」として認知されることがほとんどだけれど、7年くらいは神戸に住んでいた。
大学をダブりまくった挙句、フリーターにもバンドマンにも社会人にもなれず、片親で育ててくれた母には本当に迷惑と心配をかけた。
就職してから母に一度、しっかり謝ったことがあった。
大学を卒業できなかったこと、投資してくれたお金を無駄にしたこと。
そのとき母に「お金どうこうは置いといたとして、あんたが『気張ってコツコツ努力する』ことを最後までできひんかったことが悲しかってん」と言われた。
さすがは親、よくわかっている。
私は、気張ってコツコツ努力をしたことがない。
気張ること、コツコツやること、努力すること、それら単体なら得意な方かもしれない。
でも、気張ってコツコツ努力をする、これは本当に苦手だった。
自分は運動神経がない代わりに、体を動かすこと以外はなんだって器用にできた。
要領もよかったけれど、何より自分は物事を好きになるのが上手かった。
それがどれほど恵まれた才能か、子どもの頃からよくわかっていた。
他の人が「努力モード」でしかできない作業を、楽しんでやってきた。
洗濯すら二槽式洗濯機でこだわってやってたし、人間関係も、アルバイトも、仕事も、なんだかんだ楽しんでというか、やりたいようにやってきた。
だからこそなんというか、楽しくないことはやってこなかった。
受験とか就活とか、自分がスキップしてしまった通過儀礼が本当にたくさんある。
ただ、私と同じような人間の地位を守るために言っておくと、努力してないことと頑張ってないことはイコールではない。
人をdisらないであげてください。
努力してなさそうに見えても苦労してる人はいるし、頑張ってる人はいる。
私も楽しくやってはきたけど、口笛吹いてスキップで生きてきたとは思っていない。
アルバイト。
アルバイトに関して、私は胸を張って頑張っていた、気張っていたと言える。
小汚くて比較的安めの、地元チェーンの居酒屋。
やかましい店だった。
ちょっと忙しくなるとみんなカリカリしていて、店員vs店員の口論なんてしょっちゅうだった笑
面白い人がたくさん働いていたし、間違いなく自分の居場所だった。
思い返すと、当時はたくさん傷ついたり、傷つけたり、悩んだり、気張ったり、とにかく色んな喜怒哀楽をあの店で味わってきた。
中でも、印象的だった一夜をご紹介しよう。
私はそのときひどく思い詰めていて、自暴自棄になっていて、仲のいい先輩2人に連絡して、お酒を飲むことにした。
2人ともバイトの先輩かつ軽音部でも先輩だった。
その日のことは不思議なほどよく覚えている。
白いポロシャツと、紺色のスラックスを着て行った。
開口一番、「変な格好やな」「いやオシャレやと思う、体型がオシャレじゃない」などと散々言われた覚えがある笑
そういう粗野な物言いに私は心底憧れていた。
居酒屋に呼びつけたは良いものの、ヤケ酒に慣れていなかった我々は、取り止めのない雑談を小一時間くらいした。
私はアメリカの早撃ちガンマンBob Mundenの話をした。
「あまりに早すぎて2発撃っても銃声が1発ぶんしか聞こえない」と言う私、信じない2人。
じゃあ今からその動画見せろ、2発ぶんの銃声が聞こえたらお前が飲め、と言われた。
終わった、いや始まった。
仕方なく、この賭けの結果になんの影響も及ぼさないBob Mundenの神技をスマホで見せた。
その日の炭火焼鳥りんぐ阪神新在家駅前店は平日の割に繁盛していた。
当時の携帯のスピーカーは今より最大音量が小さかった。
動画の音なんて完全に喧騒にかき消されていた。
「いや、2発やな」
「うん、パパンって」
ひかるさんと八重垣さんは仲良くそう言って、角瓶を私に渡したーーーーーー
ーーーーーー次の記憶は午前3時、意識を取り戻したときオシャレな服はゲロまみれで、私は店の便器を抱えていた。
トイレを出るともう店内の明かりは落とされていて、暗がりで有田店長(通称ありちゃん)が1人で締め作業をしていた。
先輩たちはとっくに帰ったとのこと。
私も追いかけて外に出たが、見つかるはずもなかった。
翌朝起きるとありちゃんからLINEが来ていた。
私らが誰1人お金を払わずに帰ったので、ありちゃんが建て替えたとのこと。
5〜6年働いていたけれど、食い逃げをしたお客さんは見たことがない。
店員がやっているのは、何回も見た。
そんな楽しい居酒屋をやめて私は京都に帰り就職したわけだけれども、先延ばしの鬼である私がバイトをやめた決心をしたは、チャーハンがきっかけだった。
私は心のどこかで「この店でずっと、料理人として生きていくのも悪くないな」と思っていた。
そこそこ安い居酒屋の、ちょっと美味しい料理。
ウチより高級な店もウチより安い店もたくさんあったけど、私はあの店の店員であることにプライドを持っていた。
居酒屋に来るお客さんの目的は、お酒でも料理でもなく、楽しい飲み会なのだと。
どんな一流料理店だろうと、激安定食屋だろうと、ウチより楽しい飲み会を過ごせる店はないと、そう思っていた。
私の2〜3個下にアキラという後輩がいた。
運動部で背が高くて、気怠げで不真面目ぶってる割に、芯を捉えたことを言うやつだった。
ある日アキラが、賄いにチャーハンを作っていた。
チャーハンにこだわる店員は多く、オイスターソースだのバターだの、店の食材をフルに生かしてこだわりを込めていた。
私もその1人だった。
結論として、その日のアキラのチャーハンが美味しすぎて、私はアルバイトを辞めた笑
それは中華料理屋のチャーハンそのものだった。
一体何で味付けをしたのかアキラに聞くと、彼はニヤリと笑って「塩と胡椒だけっすね。素材の味っす」と私に言った。
その言葉を聞いて私は、自分が料理人にはなれないことに気付いてしまった。
常連のお爺ちゃんが、ウチの店長を評して「有田はなんだかんだ、味をわかっとる奴や」と言ってたことを思い出した。
俺は結局、味のわからんやつなんだな、という爽やかな諦めが、そのとき天啓のように頭に浮かんだ。
本当にその日にそのまま、バイトをやめる旨をありちゃんに伝えて、家の解約の書類を書いた記憶がある。
それ以来、ほとんどチャーハンを作ることはなくなった。
で、今日。
久々にチャーハンを作るにあたって、私は当時自分のチャーハンこだわりを全部捨てて、基本の作り方に忠実に作ってみた。
あんまり美味しくなかった。
当時は持ってなかった鉄パンで、当時は入れてなかったタマネギを入れて、焦げてるのに水気の多いTHE実家のチャーハンが出来上がった。
でも、爽やかな味だった。
アレから何年も経って、普通に仕事もして、色んな人とも出会って。
これから自分のチャーハンを考えていこうと思った。
まさかアキラはアキラのチャーハンに敗北したショックで私が実家に帰ったとは気付いてないだろうし、少なくとも私がそのままチャーハン道を歩むことを望んでいたと思う。
ギターを長い間やっていると、「自分には才能がない」というセリフをたまに聞く。
私のギターは誰かにとって、「アキラのチャーハン」だったかもしれない。
でも私も6年くらいこのバンドをやってきて、1つわかった。
才能の有無なんてものは、コツコツ磨いてみないことにはわからないんです。
要領よくできること、人より上達が遅いこと、色々ある。
バンドを組み始めたころ、自分にはギターの才能はあっても、作詞の才能と歌の才能はないと悩んでいた。
自分がコツコツやって身につけたことを、運動神経だけでホイホイやってしまう人も身近に多かった。
でもなんだかんだ長い間やってきて、今となっては実は、自分のギターより自分の歌詞の方が自信を持っている気がする。
才能がある、とすら思っている。
歌に関しても……天才ではなかったけど、見違えるほど上手くなった。
自分の「分」(分相応とかの分)も少しだけ見えてきたけれど、もう6年やってきてしまったので、後戻りできなくなっている笑
才能なんて、そんなもんなんだろうと思う。
自分の才能について本当に分かりはじめた頃には、才能どうこうで引き返せる場所はとっくに超えている。
そこまで自分が辿り着くためには、コツコツやるしかない。
嫌いなことなら仕方ないけど、好きなことなら楽しんで行きたい。
貯金をして車を買おう。
税金のこととか勉強しよう。
お絵描きやってみよう。
楽器を練習しよう。
嫌いなこと、好きなこと、気張ってコツコツ努力しようと思った。
俺はチャーハン作るのが好き。
チャーハンの才能、いつかわかるといいな!
また作りたい。
昔はよく作ってたし、こだわりも持っていた。
ワンルームマンションのIHとテフロン加工のフライパンで、どこまで作れるか。
前日のお米の残りに卵とガラスープと味の素とごま油を投入し、常温の状態で混ぜる。
で、それを一回アチアチにチンする。
これは田村家に受け継がれたレシピを私が改良した、自信作の調理法だった。
最近私は「京都の人間」として認知されることがほとんどだけれど、7年くらいは神戸に住んでいた。
大学をダブりまくった挙句、フリーターにもバンドマンにも社会人にもなれず、片親で育ててくれた母には本当に迷惑と心配をかけた。
就職してから母に一度、しっかり謝ったことがあった。
大学を卒業できなかったこと、投資してくれたお金を無駄にしたこと。
そのとき母に「お金どうこうは置いといたとして、あんたが『気張ってコツコツ努力する』ことを最後までできひんかったことが悲しかってん」と言われた。
さすがは親、よくわかっている。
私は、気張ってコツコツ努力をしたことがない。
気張ること、コツコツやること、努力すること、それら単体なら得意な方かもしれない。
でも、気張ってコツコツ努力をする、これは本当に苦手だった。
自分は運動神経がない代わりに、体を動かすこと以外はなんだって器用にできた。
要領もよかったけれど、何より自分は物事を好きになるのが上手かった。
それがどれほど恵まれた才能か、子どもの頃からよくわかっていた。
他の人が「努力モード」でしかできない作業を、楽しんでやってきた。
洗濯すら二槽式洗濯機でこだわってやってたし、人間関係も、アルバイトも、仕事も、なんだかんだ楽しんでというか、やりたいようにやってきた。
だからこそなんというか、楽しくないことはやってこなかった。
受験とか就活とか、自分がスキップしてしまった通過儀礼が本当にたくさんある。
ただ、私と同じような人間の地位を守るために言っておくと、努力してないことと頑張ってないことはイコールではない。
人をdisらないであげてください。
努力してなさそうに見えても苦労してる人はいるし、頑張ってる人はいる。
私も楽しくやってはきたけど、口笛吹いてスキップで生きてきたとは思っていない。
アルバイト。
アルバイトに関して、私は胸を張って頑張っていた、気張っていたと言える。
小汚くて比較的安めの、地元チェーンの居酒屋。
やかましい店だった。
ちょっと忙しくなるとみんなカリカリしていて、店員vs店員の口論なんてしょっちゅうだった笑
面白い人がたくさん働いていたし、間違いなく自分の居場所だった。
思い返すと、当時はたくさん傷ついたり、傷つけたり、悩んだり、気張ったり、とにかく色んな喜怒哀楽をあの店で味わってきた。
中でも、印象的だった一夜をご紹介しよう。
私はそのときひどく思い詰めていて、自暴自棄になっていて、仲のいい先輩2人に連絡して、お酒を飲むことにした。
2人ともバイトの先輩かつ軽音部でも先輩だった。
その日のことは不思議なほどよく覚えている。
白いポロシャツと、紺色のスラックスを着て行った。
開口一番、「変な格好やな」「いやオシャレやと思う、体型がオシャレじゃない」などと散々言われた覚えがある笑
そういう粗野な物言いに私は心底憧れていた。
居酒屋に呼びつけたは良いものの、ヤケ酒に慣れていなかった我々は、取り止めのない雑談を小一時間くらいした。
私はアメリカの早撃ちガンマンBob Mundenの話をした。
「あまりに早すぎて2発撃っても銃声が1発ぶんしか聞こえない」と言う私、信じない2人。
じゃあ今からその動画見せろ、2発ぶんの銃声が聞こえたらお前が飲め、と言われた。
終わった、いや始まった。
仕方なく、この賭けの結果になんの影響も及ぼさないBob Mundenの神技をスマホで見せた。
その日の炭火焼鳥りんぐ阪神新在家駅前店は平日の割に繁盛していた。
当時の携帯のスピーカーは今より最大音量が小さかった。
動画の音なんて完全に喧騒にかき消されていた。
「いや、2発やな」
「うん、パパンって」
ひかるさんと八重垣さんは仲良くそう言って、角瓶を私に渡したーーーーーー
ーーーーーー次の記憶は午前3時、意識を取り戻したときオシャレな服はゲロまみれで、私は店の便器を抱えていた。
トイレを出るともう店内の明かりは落とされていて、暗がりで有田店長(通称ありちゃん)が1人で締め作業をしていた。
先輩たちはとっくに帰ったとのこと。
私も追いかけて外に出たが、見つかるはずもなかった。
翌朝起きるとありちゃんからLINEが来ていた。
私らが誰1人お金を払わずに帰ったので、ありちゃんが建て替えたとのこと。
5〜6年働いていたけれど、食い逃げをしたお客さんは見たことがない。
店員がやっているのは、何回も見た。
そんな楽しい居酒屋をやめて私は京都に帰り就職したわけだけれども、先延ばしの鬼である私がバイトをやめた決心をしたは、チャーハンがきっかけだった。
私は心のどこかで「この店でずっと、料理人として生きていくのも悪くないな」と思っていた。
そこそこ安い居酒屋の、ちょっと美味しい料理。
ウチより高級な店もウチより安い店もたくさんあったけど、私はあの店の店員であることにプライドを持っていた。
居酒屋に来るお客さんの目的は、お酒でも料理でもなく、楽しい飲み会なのだと。
どんな一流料理店だろうと、激安定食屋だろうと、ウチより楽しい飲み会を過ごせる店はないと、そう思っていた。
私の2〜3個下にアキラという後輩がいた。
運動部で背が高くて、気怠げで不真面目ぶってる割に、芯を捉えたことを言うやつだった。
ある日アキラが、賄いにチャーハンを作っていた。
チャーハンにこだわる店員は多く、オイスターソースだのバターだの、店の食材をフルに生かしてこだわりを込めていた。
私もその1人だった。
結論として、その日のアキラのチャーハンが美味しすぎて、私はアルバイトを辞めた笑
それは中華料理屋のチャーハンそのものだった。
一体何で味付けをしたのかアキラに聞くと、彼はニヤリと笑って「塩と胡椒だけっすね。素材の味っす」と私に言った。
その言葉を聞いて私は、自分が料理人にはなれないことに気付いてしまった。
常連のお爺ちゃんが、ウチの店長を評して「有田はなんだかんだ、味をわかっとる奴や」と言ってたことを思い出した。
俺は結局、味のわからんやつなんだな、という爽やかな諦めが、そのとき天啓のように頭に浮かんだ。
本当にその日にそのまま、バイトをやめる旨をありちゃんに伝えて、家の解約の書類を書いた記憶がある。
それ以来、ほとんどチャーハンを作ることはなくなった。
で、今日。
久々にチャーハンを作るにあたって、私は当時自分のチャーハンこだわりを全部捨てて、基本の作り方に忠実に作ってみた。
あんまり美味しくなかった。
当時は持ってなかった鉄パンで、当時は入れてなかったタマネギを入れて、焦げてるのに水気の多いTHE実家のチャーハンが出来上がった。
でも、爽やかな味だった。
アレから何年も経って、普通に仕事もして、色んな人とも出会って。
これから自分のチャーハンを考えていこうと思った。
まさかアキラはアキラのチャーハンに敗北したショックで私が実家に帰ったとは気付いてないだろうし、少なくとも私がそのままチャーハン道を歩むことを望んでいたと思う。
ギターを長い間やっていると、「自分には才能がない」というセリフをたまに聞く。
私のギターは誰かにとって、「アキラのチャーハン」だったかもしれない。
でも私も6年くらいこのバンドをやってきて、1つわかった。
才能の有無なんてものは、コツコツ磨いてみないことにはわからないんです。
要領よくできること、人より上達が遅いこと、色々ある。
バンドを組み始めたころ、自分にはギターの才能はあっても、作詞の才能と歌の才能はないと悩んでいた。
自分がコツコツやって身につけたことを、運動神経だけでホイホイやってしまう人も身近に多かった。
でもなんだかんだ長い間やってきて、今となっては実は、自分のギターより自分の歌詞の方が自信を持っている気がする。
才能がある、とすら思っている。
歌に関しても……天才ではなかったけど、見違えるほど上手くなった。
自分の「分」(分相応とかの分)も少しだけ見えてきたけれど、もう6年やってきてしまったので、後戻りできなくなっている笑
才能なんて、そんなもんなんだろうと思う。
自分の才能について本当に分かりはじめた頃には、才能どうこうで引き返せる場所はとっくに超えている。
そこまで自分が辿り着くためには、コツコツやるしかない。
嫌いなことなら仕方ないけど、好きなことなら楽しんで行きたい。
貯金をして車を買おう。
税金のこととか勉強しよう。
お絵描きやってみよう。
楽器を練習しよう。
嫌いなこと、好きなこと、気張ってコツコツ努力しようと思った。
俺はチャーハン作るのが好き。
チャーハンの才能、いつかわかるといいな!
